生まれるときにも悲しみが、死ぬときにも喜びがある。花が咲いて散ることと同じように。

高橋ともえ

この間からブログでも、そしてメルマガでもチラッとお伝えしていますが、母が逝去したことで、改めて死に関する霊的な書物や学びをおさらいすることが続いています。

※私の一番のおすすめはやはりシュタイナーかなと思います。特定の宗教観に関係なく、非常に分かりやすいと思うのです。

>>>シュタイナーの死者の書

私は今回の人生で子どもの出産を体験していますが、子どもが生まれる前日、突然ものすごい悲しみに襲われるということがありました。

予定日を過ぎてもなかなか生まれず、お医者さんに言われて近所の公園まで運動しに行っていたんですが、ある日の夕方、街路樹の向こう側に沈んでいく太陽を見たとき、

「このままで完璧なのに、どうしてこの子は離れていってしまうんだろう」

と、急に悲しくなったんです。

それは、単純にお腹の中で自分と一体になっていた存在が外に出ていくという喪失感では語りつくせないもの悲しさで、いわば、子どもが地上に生まれることに対しての悲しみのようなものが自分の中に入ってきたんですね。この感覚はいったい何なんだろう?と不思議に思うような、自分のものではないような感覚です。

まあそれも、実際に出産して子どもの顔を見たらすっかり吹き飛ぶくらいの喜びで塗り替えられてしまったのですが。

実は今回の母の急逝のときも、同じような感覚がありました。

地上的な感覚ではショックだし悲しいのです。ですが、母の死後、日々の瞑想をしていると、はっきりと母が私のそばにきているという感覚があって、時空を超えた場所で一緒にいるという感覚があります。

何より、母を思って行う私の瞑想の時間に感じる光の総量が増えているような感じがあり、既に母が肉体から解放されて自由になり、喜んでいるんだということが体感として感じられるんですね。

元々、死は終わりではなく次のステージへの移行であり、次の転生を準備する期間がスタートしたということで、本来は喜びである、ということは知識として知っていましたが、実際に自分の身近な肉親の死にあたってこれを体験してみると、これまで地上で離れていたこと自体が一時的なもので、本来は見えない世界に本体があり、その本体の部分ではいつでも一緒で、地上にはその一部がまるで自分とは違うもののようにあらわれていただけなんだなと感じます。

地上で個別の肉体の中に入ってしまうと、相手を内側から感じるということは難しくなりますが、生まれる前、そして死んだ後は、相手をとても近くに感じるのだなと、子どもの出産のときの悲しみと、母の死のときの喜びを通して強く感じています。

たとえば浄土真宗は50回忌まで法要をしますが、日本の平均寿命から考えると死後少なくとも30年くらいは死者は生者とともにいるということを考えると、法事の意味も無駄なものとは思えないと感じます。

ちなみに、以前からこのブログでもおすすめしている須王フローラさんの「花神」には、大切な人の死によって起きることが体験から語られていて、ここに書いてあることのまだ半分も追体験できていませんが、とても助けになりました。

>>>須王フローラ 「花を飾ると、神舞い降りる」

今回、花にはとても助けられました。もともと実家とは離れたところで暮らしているので、定期的にイベントごとに親に花を贈っていたのですが、敬老の日に送った花が母を慰めてくれたことを家族から聞いたからです。

他にも、花を符号とした不思議なことも起きていて、花があることで、今回の死の意味を深く理解することができていると思います。この不思議な話については、またもっと後になりますが皆様にお伝えしたいと思います。

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ABOUT ME
高橋ともえ
高橋ともえ
星読み風水師
1981年生まれ。 魂の可能性を緻密に描き出すドイツ系西洋占星術と陰陽五行説に基づく日本の卍易風水を組み合わせて「魂の高揚感を地に足をつけて楽に生きる」お手伝いを講座やセッションを通して提供しています。 訳書に、『ヒーリングエンジェルシンボル』(ヴィジョナリーカンパニー)、『四気質の治療学』(フレグランスジャーナル)がある。詳しいプロフィールはこちらから。
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