[つぶやき]絶望は希望の種~映画「四日間の奇蹟」を見て
ずーっと昔に見た「四日間の奇蹟」の映画を最近もう一度見てみた。ベートーヴェンの「月光」のソナタがテーマになっています。
>>>四日間の奇蹟
このお話の中には、月が与えてくれる恵みに関するすごく大切なことが描かれていると思っています。
※詳しいあらすじは、ググってみてくださいね。
この映画見ていると、
・両親を事件で失ってしまったサバン症候群の少女(千織)
・ピアニストだったけど少女を助けようとして手の神経を失う怪我をしてしまった青年(ケイスケ)
・父子家庭だったので自分の家族が欲しくて大家族に嫁いだけど子供ができなくて離婚した女性(マリコ)
が出てくる。
みんなそれぞれ、悲しみや絶望にさらされて、人生を生きているわけです。
どっちかというと、欲しいものをすべて得ることが幸せというような世間一般のゴールドコースから外れた人々です。
ただ、だからといってこれらの人々が不幸かというとそういうわけでもないです。
最後、マリコが死んでいくんですけど、その時に彼女が「自分の願いは全部叶っていた」と言って死ぬんですよね。
これ、(狭い個人のエゴ的な)太陽的な視点から見ると、どう逆立ちしたって分からない境地です。
千織は、両親を失わなければ、ピアノの才能をケイスケに見出されることはなかった。
ケイスケは、手を失わなければ、大切な家族であり自分の「手」になってくれる千織と出会うことはなかった。
マリコは、離婚しなければ、センターの多くの患者さんやスタッフという大家族に恵まれることはなかったし、ケイスケとも再会できなかった。
それは、自分というエゴを消したときに見えてくる「成就」です。
こういうことが、「四日間の奇蹟」の中では何度も分かるように色々と象徴的なシーンがあります。
中でも一番印象的なのが、
千織を助けようとして手を拳銃で撃たれてしまったケイスケの絶望の「あーっ」という叫びが、
ケイスケと一緒にドライブしているときのリラックスしている千織の「あーっ」というのんびりした声に重なるところ。
こんな風に、絶望と希望は、実は一緒のものなんだということが、月の教え。
こんな風に反転しながら、悲しみが喜びに、絶望が希望に変わっているということを教えてくれるのが、(高次の)月の機能かなと思います。
ケイスケの個人の野望としてのピアニストになりたいという気持ちは、才能を開花させている千織の中で叶っているわけだし、マリコの子供が欲しいという思いは、離婚した旦那さんの次の奥さんのところに生まれた赤ちゃんとして叶っているわけです。
だから、私たちが今、恵みとして享受しているものの多くは、誰かが切に願った何かの結果なのです。
いつかどこかで誰かが私心なく祈った願いを記憶してくれている月の領域から、力を汲み取って、私たちは具現化しています。
個人のエゴという枠組みの中では叶わなかった夢も、人類の総体として見るとき、誰かがいつか、必ず叶えられていく。
だから、安心して願ってほしい、どんどんお願いしてほしい、というのが、慈悲深い月の容貌なのだと思います。
本当にすべての願いを(誰かが必ずいつか)叶えるということを約束してくれるのが月の神です。
※ちなみに、多分、教会や神社ってこういうお願いのストックされているところですね。
ただ、月は、右肩上がりの成長ではなく、無理のないらせん状の成長を促しているということも覚えておく必要があります。
それが、欠けるフェイズ、手放すフェイズもあるということです。だから、絶望も失望も、失敗もあるよということ。
だから、一見すごく非効率なように思うんですが、でも最終的には、右肩上がりを目指すよりも、この地球と宇宙のサイクルには乗りやすくなる。
そして、無理がないということは、実は美しいということもであります。
光ばかりがあるところって、ギラギラして苦しくなりますけど、陰陽のバランスが取れているところは、リラックスできます。
この状態であることを目指した時に真実の幸せがあるということかなと思います。
私は、陰影のあるものが好きなので、こういう世界ってすごく好きですね。
全体としてみたときに、ある種の洗練がある世界。