真っ黒な絵しか描けなかった男性が彫刻で賞を取った奇跡のアトリエ。記憶の地下1階、地下2階を通り抜け地下3階で自分の源に触れる。
牡牛座と獅子座の季節ということで思い出したのが、私がいっとき(1年程度ですが)絵を習っていたドイツ人の先生のことです。その先生は牡牛座生まれで、名前に「獅子」を意味する名前が入っていたので(笑)あと、同じく芸術家の奥様は獅子座生まれでした(笑)
で、実は先日、色々と荷物を整理していたところ、その当時先生のところで描いた絵が発掘され、玄関の義母の絵の隣に私の絵を並べておいてもらっています。
世間では色々なアートセラピーがあって、色々な形でワークショップをされている人がいますが、私の習っていた先生のすごいなと思うところは、
✔ どんな状態のどんな人の中にも損なわれない神聖な源がある。
✔ ただしその領域に到達するためには心の内側(の闇)を探っていく必要がある。
✔ 創造という行為を通じてこの源に触れることが誰にでもできる。
というのを徹底的に信頼して場を作っていたことです。
不思議なことに、その先生のアトリエのレッスンで描く絵は、
自分の実力以上の絵を描くことができたんですよね。
家に帰って、同じように自分の部屋で描いてもそうならないのに。
その先生はいつも、レッスンの前と、私たちが描いている最中に神様にお祈りをささげていました。
今思えば、私たちのために、というか、その場を作るために、真摯に祈っていたのだと思う。
・・・例え方としては不自然かもしれないけど、この先生からは、たくさんの女性に囲まれ女性に慕われ愛されていたと言われているイエス様のようなエネルギーをいつも感じて、すごく癒されたし、安心できたんですよ。
そしていつも、この先生に会うと自分の魂が喜んでいるなって思っていました。
それは、このドイツ人の先生が、女性たちを金太郎飴にしたり(賞賛を求めたり)、自分の月の代わりにする(母親代わりや家政婦にする)エセ太陽ではなく、女性たちを太陽の領域に引き上げることのできる真の男性性の力を持っていたからだと思います。
※この先生についてはこちらの記事でも書いてるよー!
で。
この先生のところで、私と一時期一緒にレッスンを受けている男性がいました。
実は彼は、絵を描くときに、ワークショップの最後になるといつも絵を真っ黒に塗りたくってしまっていたんですよね。
ほぼ毎回、その状態が続いていました。
でも、先生たちは一切何も言わず、ただただ、じーっとこの彼を見つめ、真っ黒に塗られた絵をずーっと見つめていました。
ただただ静かに、何も判断せずに。
そしてね。
あるとき(半年後くらい?)この男性の絵に少し光というか黒以外の色が出てきたんです。
その時期と前後して、彼はどうやら彫刻を始めたらしいということが分かりました。
実は私たちのドイツ人の先生は彫刻の方が専門でもあってのですが、例の男性は彫刻を始めたそうです。
私は彫刻にはあまり興味がなかったのですが、ある日のレッスンで試しに彫刻のコースに出てみたら、例の男性が生き生きとした素晴らしい作品を作ったんですよ。
それほもう・・・あの真っ黒の絵を描いていたのと同じ人物とは思えないくらい、彼らしさが宿っているすごい塑像だった。
どうやら、絵を描く、あるいはpaintするというのは、この男性にとってはあまり好きなことではなかったようです。
なぜなら、彼の仕事は家業で継いだ看板屋さんだったから・・・。
そう、彼にとっては、絵筆を取って塗るという行為は、決してそこまで自分が好きではない看板の仕事を思わせるものだったので好きではなかったみたい。
でも、その嫌いなpaintするという行為の中で感じていた真っ黒な思いを吐き出して、吐き出したあとで、彼は彫刻に出会った。そして、急に彼の絵が変わっていったのです。
・・・その後(数年後)、彼がこのドイツ人の先生と一緒に出した公募展の彫刻部門で賞を取ったという話を聞きました。
この先生は、綺麗な絵やカッコいい彫刻かどうかということに一切興味がなく、創造という行為を通してどれだけ深く真摯に魂の源に触れるかということにだけフォーカスしている人だったのですが、それが結果として賞に結びついたというのは素晴らしいことだったと思います。
そして、そのような場を作るために、自分の魂の奥の原初の光(先生は神秘的キリスト教者だったので幼子イエスといっていましたが)のところまで日々芸術活動を通して降りていっている、そういう人でした。
セラピーとかヒーリングにおいて、人をかわいそうだとジャッジして、その傷やかわいそうさを取り除くという形で癒す方向性もありますが、そういう表面的な癒しはどこかで頭打ちになるのですよね。
なぜかというとそれは、その人の無価値観や無力感を助長するから。
村上春樹さんと川上未映子さんが対談したこの「みみずくは黄昏に飛び立つ」っていう対談を読むと、
人の意識を建物に例えると、一般的に人と触れ合って日頃見せている人格が地上1階。地上2階は、本とかがつまっているパーソナルスペース。一方、個人の傷やうらみつらみが詰まっている地下1階(クヨクヨ部屋)があり、そこからさらに下っていくと地下2階があるというのです。
この地下2階というのは、いわば集合的な無意識の世界。そこには神的なものもあるし、逆に悪魔的なものもある。自分を超えて誰かと根っこでつながってしまうような世界です。
そして、川上未映子さんは、村上春樹さんが物語の中で降りていこうとしているのはこの地下2階だと言っています。
一般的な小説は、割と地下1階のところで語られることが多いのに対して、村上春樹作品は地下2階に降りていってそこから物語っているところが違うのだと川上さんが言っていました。
ただ・・・この地下世界的な領域から物語ることには一種の危うさも伴うということも、この対談の中で言われています。それが地下1階にせよ、地下2階にせよ。
(川上さん)自分自身の意識に密接した問題が地下一階にはあって、それはわりに共有されやすかったりもする。わたしたち作家は、物語を読んだり書いたりすることで、それぞれが抱えている地下一階の部屋を人に見せ、人に読ませています。これが、自分自身のための作業として、それらを味わったり、地下の部屋を見るだけなのなら、まだわかるんですよ。自分を理解するとか、自分を回復するというだけならね。でも、それを人に見せて読ませるというのは、すごく危険なことをしているようにも思うんです。
(中略)
さらにそこから地下二階に降りていくこと・・・それも含めて、フィクションを扱うということは、とても危険なことをしていると思っているんです。というのは、まず一つに、なんというかな・・・やっぱりフィクションというものは実際的な力を持ってしまうことがあると思うからです。そういう視点で見ると、世界中のすべての出来事が、物語による「みんなの無意識」の奪い合いのような気がしてくるんです。
(村上さん)論理的な世界、家の喩えでいうと一階部分の世界がそれなりの力を発揮しているあいだは抑え込まれているけど、一階の論理が力を失ってくると、地下の部分が地上に噴き上げてくる。もちろんそのすべてが「悪しき物語」であるとは言えないけれど、「善き物語」「重層的な物語」よりは「悪しき物語」「単純な物語」の方が、人々の本音により強く訴えかけることは間違いないと思います。
ちなみに、この地下2階って魔術や魔的なものとの関りが非常に強いと思っています。だからこそ魅力的であり、そして危険な領域。
ヒトラーや麻原彰晃など、多くの人を扇動したカリスマ的な政治家や教祖の多くは、地下2階の膨大な力を使って人々の地下1階を揺り動かしたのだと思います。そして、たまらなく魅力的な芸術は、もれなくこの地下2階の部分を必ず扱っています。
では、その芸術なり政治なりが、村上春樹さんが言うところの「善き物語」に結びつくのか「悪しき物語」に結びつくのかの違いは、どこにあるのでしょうか?
それは、個人の傷という地下1階、そしてそこからさらに進んだ集合的無意識という地下2階を経つつ、さらにそれらをも超えていった先に必ず存在している地下3階・・・そこにある損なわれていない光の源に触れているかどうかの違いではないかと思っています。
その地下3階に誰もが持っている光の源まで到達して過去を照らし返したときに、そこまでたどってきた負の感情や地獄的な闇の一切が、一気に色彩に変化していくのです。
私の師事していた先生は、この領域、この地下3階の存在を徹底的に信じていた。
そして、それこそが彼が生徒の可能性を信じることにもつながっていたと思います。
だから、例の黒い絵を描いていた男性が、その黒い領域を突き抜けて彼のスタイルを掴むまで寄り添うことができたのだと思います。
結局本当の癒しというのは、地下1階や地下2階に落ち込んで苦しんでいるかわいそうな人を救い出してあげるということではなく、地下1階や地下2階に落ちていった経験は、地下3階の光にたどり着くためのものだったんだと本人が気づいて、その光を手にするまでをただただ見守ることなのです。
そのような奇跡が起きやすい場を作るために、先生ご夫妻は日々祈りと芸術活動を通じて地下3階に降りていく鍛錬を続けていた。だからこそ、先生のアトリエで生徒たちの奇跡が起きることが多かったんだと感じます。
私はこの先生の所で絵を描くようになるまで、正直記憶を見ることが苦手で、過去の忘れたいことを思い出すのはとても苦痛でしたけど、絵を描くたびに過去を見ることや痛みを感じることへの恐怖はずいぶん薄らいだと思っています。
今年運リーディングの人たちに、月のリズムにのっとった過去の振り返りのタイムラインを定期的にメルマガで配信していますが、私が過去を見ることを恐れていないのも、つらそうな人に対してあまり動じなくなったのも、この地下3階に触れるということを自分で体感もしたし、その場を目撃することがあったからです。