ハートの目で見るために嵐の海の中に入っていくことをサポートするマグダラのマリア~カマルグの十字架と「雷、全きヌース」
蟹座上弦の月と春分が重なっていましたが、いったい今回のムーンサイクルでは何を思い出すのかな?と観察していたところ、図らずもマグダラのマリアのことを思い出しました。
きっかけは、年運リーディングにお申し込みされた方のご質問への答えを考えているときのことです。
見ることは愛、という話ですね。
マグダラのマリアの聖日は7月22日。ちょうど蟹座と獅子座の境界の日ですね~。
そう、マグダラのマリアと言えば・・・ちょうど2009~2010年のこと。
そのころの私は、最悪な彼氏(このときの人のことね)となんとか別れたのはいいけど、その後もっと最悪なことがあって(これについては今度また語るね・・・時期が来たら・・・)、
本当に意気消沈していたときに偶然出会ったイングリットの本で心のリハビリをしたら良かったのでそれを出版社に持ち込んだら出版が決まって・・・という運気の変わり目というかアップダウンの激しい1年でした。
※イングリットの本はこれね↓
そして版権交渉のお礼と言うことでオーストリアのイングリットのオーストリアのメルクで開催されるセミナーに招待されたの(そして、そのときに親友でメンターのカーリンともウィーンで出会ったの)。
※カーリンについてはこちらの記事に書いています。ドイツ人の出版エージェントの人。
その招待されたセミナーは3回シリーズだったのだけど、ちょうど夏の(2回目の)セミナーの最中、急にイングリットのチャネル先がマグダラのマリアにつながったのよね。
そのときから急にイングリットはマグダラのマリアについて発信をはじめて、その流れで彼女は南仏のマグダラのマリアの痕跡をたどる旅行に行くようになったの。
旅行の後で彼女が送ってくれた写真の中に、カマルグの十字架という南仏のカマルグ地方の象徴的な十字架の写真があったことを思い出した。
伝承では、イエスの死後、マグダラのマリアとその周りにいた女性たちはイスラエルから逃げて南仏へ行き、そこで人々にシンボルを使って布教をしてイエスの教えを伝えたと言われています。(その1つがマルセイユタロットと呼ばれているタロットだとも言われていますね。)
でね、カマルグの十字架自体は1924年に作られたもので、直接にはマグダラのマリアとは関係ないのですが、このデザインがとても素敵なの。
カマルグの十字架は、ハートと錨と十字架で構成されています。
で、先日、これが実にマグダラのマリア的だということに気づいたの。
気づいたのは、今めちゃくちゃマグダラのマリア関係の発信で海外で熱く注目されている、ハーバード卒の神学者であるMeggan Wattersonっていう人の書いたマグダラのマリアの福音書に関する本の最初のイントロを読んだとき。
マグダラのマリアの福音書(マリアの福音書)の冒頭に、こういうパッセージがあります。
Does a person who sees a vision see it with the soul or with the spirit?
And Christ answers,
A person does not see with the soul or with the spirit.
Rather the mind(nous), which exists between these two, sees the vision and that is what…
…
ビジョンを見る者は、魂で見るのでしょうか、それとも霊で見るのでしょうか?
主は答えた。
人は魂で見るのでも霊で見るのでもない。
そうではなくて、この2つの間に存在しているヌース、nous(mind)でビジョンを見るのだ。・・・
ここで、英語ではmindとしていますが、Meggan Watterson曰く、mindの元の語はnous(ヌース)というギリシア語。
nous(ヌース)ってそれ自体かなり意味が広く、mindと訳してしまうとnousという語が本来持っている広い意味がこぼれてしまう。
Megganが言うのは、ここで言われているnous(ヌース)は、mindというよりはこれはむしろ、ハートの目(eye of the heart)という意味なのだというのです。
つまり、上記のパッセージをより意味的に正確に訳すならば、
Does a person who sees a vision see it with the soul or with the spirit?
And Christ answers,
A person does not see with the soul or with the spirit.
Rather the mind(nous), which exists between these two, sees the vision and that is what…
…
ビジョンを見る者は、魂で見るのでしょうか、それとも霊で見るのでしょうか?
主は答えた。
人は魂で見るのでも霊で見るのでもない。
そうではなくて、この2つの間に存在しているハートの目でビジョンを見るのだ。・・・
となるわけです。
そして、キリスト教をご存知の方なら割と知っていると思いますが、イエス(キリスト)の復活を一番最初に見たのはマグダラのマリアなのですよね。
この時、他の弟子に先んじでマグダラのマリアが復活後のイエスを見たというのは、マグダラのマリアが心の目で見るということをマスターしていたからなんだと思います。
・・・もう一度カマルグの十字架に戻ります。
マグダラのマリアは、十字架とハートと錨がついているこのカマルグの十字架そのものだなと私は感じています。
錨というのは、船につないで海の底に沈めることで船が揺らいでも流されて行かないようにするものですよね。
つまり、錨というのは、荒れた海や嵐があることを織り込み済みで、海という場所へ出ていくための庇護とサポートの象徴なのです。
海というのは言うまでもなく感情の象徴。
刻々と移り変わり、美しいけれど安寧で楽しいことばかりではなく危険も伴う恐ろしくも魅惑的な海の中に私たちが積極的に関わるための庇護とサポートを提供し、それを通じて私たちがハートの目(nous、ヌース)を獲得していくことを強力に促すのがマグダラのマリアなのだと思うのです。
そして、こういう私たちの変わりやすく揺らぎやすい感情のすべての襞に寄り添う存在だからこそ、マグダラのマリアは、ある時は聖女、ある時は娼婦、みたいな振れ幅の大きなイメージを投影されているんじゃないかと思います。
・・・ここで、Thunder, Perfect Mind(Perfect Nous)(雷、全きヌース)というナグハマディ文書の中にある不思議な詩を紹介します。
この詩は、女性の語り手が語っている神秘的な詩で、必ずしもマグダラのマリアに帰するものではないのですが、きわめてマグダラのマリア的なの(日本語は拙訳で必ずしも原語に沿っていません)。
I am the first and the last.
I am the honored and the scorned.
I am the whore and the holy one.
I am the wife and the virgin.
I am the mother and the daughter.
I am a barren woman who has many children.
I have had many weddings,
And have taken no husband.
I am the silence that is incomprehensible,
And insight whose memory is great.
I am the voice whose sounds are many.
I am the utterance of my own name.
Why have you hated me in your counsels?
I am the lamp of the heart.
…
私は最初であり最後。
私は讃えられる者であり蔑まれる者。
私は娼婦であり聖女。
私は妻であり誰にも属さない女。
私は母であり娘。
私は不妊でありたくさんの子どもをがいる。
私はたくさんの結婚をしたし、誰も夫がいなかった。
私は理解しがたい沈黙であり偉大な記憶を持つ洞察。
私は複数の響きを持つ声。
私は自分自身の名の発話。
あなたはなぜ、自分の考えの中で私を憎んだのですか?
私はハートの灯。
ちなみにプラダが、2005年にこの詩にムービーを付けたものを作成しています。主人公のモデルが次々に色々な女性を演じていくのがこの詩の中身とシンクロしていますので掲載しておきますね。
それにしても・・・
なぜ、全きヌースがなぜ「雷」なんでしょうね。
もともと雷って、啓示とか天啓の象徴で、特にキリスト教的な表現の中では、回心のシーンで使われます。
有名なのが馬に乗っていたパウロがびびびって雷に打たれてキリスト教徒になるという表象ですね。
ちなみに、ここで回心と書きましたが、回心というと悔い改めるとか訳されることがあるので、自分の悪を悟って反省するみたいなイメージがありますが、回心というのはギリシア語ではメタノイアといって、「視点を変える」「違う目で見る」という意味です。
つまり、物事を心の目で見る、というのが回心(メタノイア)の本質なのでしょう。
余談ですが、マグダラのマリアが一般的に「悔い改めた娼婦」という表象をされているのは、この「悔い改める」という言葉の本来の意味であるメタノイア=「心の目で見る(今までとは違う目で見る)」が、現代的な意味に誤解され歪曲されたからなのだと思います。
本来、マグダラのマリア的な意味での回心・悔い改めというのは、まさにnous(ヌース)によって見る、心の目で見る、ということ。
そして心の目で見ると、あらゆる対極に思えるものが実は通底していて同根であると分かる、ということを、この「雷、全きヌース」の詩では、様々な表現で語っているのだと思います。
それはたとえば、死んだ犬の腐った歯茎を美しいと言ったイエスの逸話のように、一般的には醜悪なものの中に美を見出そうとする心の動きであり、
あえて一度、穢れてみたいと思う心の動きでもある。
雷は雨を呼び、嵐を告げるものでもあるので、雷が閃いた後、私たちの心の海は荒れに荒れるかもしれない。
だけど、そういうときにも、一番深いところから私たちを支えてくれるのが、カマルグの十字架によって象徴されるマグダラのマリアの働きなのだと思います。
だからこそ、マグダラのマリアは、どんな醜い感情にも不安な感情にもとことん付き合ってくれる。私たちが揺れてもいいように、誰よりも深い感情(海)の底に降りていって、錨となって私たちを支えてくれている。彼女の武器は、キリストによってサポートされて豊かに探究してきたハートの力。そう、カマルグの十字架はまさにマグダラのマリアそのもの。
・・・ちなみに、私の金星のサビアンは、水瓶座1度(サビアンでは2度)の、
✔ 予期しなかった雷雨
なのですが、この「雷、全きヌース」という詩を読んで、自分の女性性の自己理解がすすんだ気がする(笑)