女神の穂(スピカ)は上向きか、下向きか?~乙女座のエネルギーの失墜とオクターブ上の変容のために
前回の記事で、魚座の時代から水瓶座の時代へと移り変わりつつある今、魚座の反対側の星座(サイン)である乙女座のエネルギーの「魔」を変容させる必要があるよ~という話を書きました。
で、この記事では、そもそも「乙女座」という星座がゾディアックの歴史でどのように変遷してきたかを書いていきますね。このことが、乙女座のエネルギーが司る「食」の変容ともとても関連しているので。
現在私たちが知っている黄道十二宮。実は、この黄道十二宮は、歴史の中で何回かマイナーチェンジを続けています。
ここで、星座の成り立ちについて一言。
星座は、たまたま恒星と恒星をつないでそれらしい形に見えたから「獅子座」とか「魚座」と呼ばれるようになったわけではありません。古代の霊視能力のある人たちが実際に天空に「見た」ものがまずあって、その後で、たとえばライオンの心臓部にあるのが恒星レグルスだとか、魚の口のあたりにあるのが恒星フォーマルハウトだとか、そういう風に実際に見えたライオンや魚の映像と重なっている部分を見て恒星の呼び名を決めたのです。
その時代、黄道十二宮の各星座は、360度を均等に12分割した30度の幅を有していました。
しかし、時代が下るにつれて、天空を見てもひとつひとつの星座を本来成り立たせている神的な影像を「見る」ことができる人の数がどんどん減っていきました。そして、かつては目印でしかなかった星しか手掛かりがなくなり、結果、星座の位置をずらして解釈することも行われるようになりました。
その中でも、最も大きなチェンジが、プトレマイオスの時代に行われました。プトレマイオスが残したアルマゲストにおいて、黄道十二宮は、古代の分割法とは違う形で分割され、各星座ごとに幅が30度未満だったり、30度以上だったりと不均等になりました。
プトレマイオスのアルマゲストの中で、古代の黄道十二宮の分割から最も大きく原型から外れた星座が2つあります。
一つが乙女座で、もう一つが天秤座です。
プトレマイオスのアルマゲストでは、乙女座は黄道十二宮で横たわった状態で描かれています。
上の画像では、乙女座の女神が手にしている穀物の穂は、下側を向いています。この穂にあたる部分が恒星スピカですが、スピカの位置は、プトレマイオスでは天文学上の乙女座29度になっています。
乙女座が横になったため、乙女座は48度もの幅を有するようになり、結果として天秤座が有する幅はわずか18度になり、天秤のみが描かれるようになりました。
しかし、乙女座(と天秤座)はもともと、古代では、こんな風に描かれていたのです。
上のイラストは、デンデラの黄道十二宮の一部です。ピンクの枠で囲ったところが乙女座に相当する女神の像です。
これを見ても分かるように、プトレマイオス以前の古代(エジプト)では、乙女座の女神は、立った姿(もしくは玉座に座った姿)で描かれ、穂(恒星スピカに相当する)を伸ばした腕の先に持ち天に向けた状態で描かれていました。当然、穂にあたるスピカは乙女座の初期度数だと考えられていました。
※この名残は、プトレマイオス以降の中世や近現代の欧州においても、多くの乙女座を描いた絵画などに残されています。
そして、その乙女座の背後に、天秤と男性が描かれていますが、これがもともとは天秤座でした。
なお、今でも、古代に使われていたサイデリアルゾディアックを使用するインド占星術では、乙女座は有翼の女性で手に穀物の穂を持ち、天秤座は天秤を持つ男性として描かれています。そして、この天秤座の男性は、大天使ミカエルと同等の存在であると言われています。
人智学系の占星術家であるRobert Powellは、プトレマイオス以降に生じた黄道十二宮の「女神ソフィアが玉座から引きずり降ろされ、ミカエルが追放されてしまった」という変化を、「人類の心性から、女性的な叡智が失墜または追放され、星の叡智を正しく理解する知性(古い時代の感性に頼ることなく新しい時代の思考の力を使って理解する可能性)が失われた」ことの象徴だと言っています。
ただし、歴史の変遷とともに乙女座(と天秤座)が変わってしまったことに関して、私個人が受け取っているメッセージとしては、女神の穂(女性的な叡智、あるいは「食」そのもの)は、かつては神から与えられた叡智そのものであり、天上とのつながりを示唆するものだったけれど、プトレマイオス以降、近現代に向かうにつれて、より地上化され、我々人間の使いやすいようなかたちに作り変えられてきたということだと考えています(それ自体が良い・悪いという意味ではない)。
プトレマイオス以降、乙女座の女神が横たわり、穂を地上に向けて下したことで、これまで「食」(の土台となる農)は、ある意味神頼みの要素が強かったのが、ある意味人間が御することができるようになりました。そのため、地上に豊かさをより多く注ぐ結果になりました。しかし、同時に、「食」にまつわる女性的な叡智や女性性から神聖さがはく奪され貶められるという弊害も起きることになってしまったのではないでしょうか。
しかし、再び次の新しい時代(水瓶座の時代)がやってこようとする今こそ、旧時代になりつつある魚座の時代、その魚座の反対側にある乙女座のエネルギーの使い方が、とても重要になってくると感じています。
つまり、乙女座のテーマ、乙女座が手に持つスピカの穂に象徴される「食」に関する神聖さを、古代とは違うやり方で取り戻すことです。
ここ数年、さまざまな食事法が世界中で再発見されたり、創始されたりして広まっています。
一般に、食事法は、他と自分を区別するために色々な禁忌やルールがあり、それ自体がまるで一つの宗教のようです。
食はドグマと結びつきやすいと思われます。マクロビ、糖質制限、その他もろもろの食養法はすべて、何をどう食べるか、禁止することで縛り、自らを定義します。
しかし私には、「食」におけるドグマを順守することは、今の時代、大きな落とし穴があるように思えてなりません。
たとえば、ここまで国際交流が進み、一人の人間が一つの国の中にとどまることなく生活し、異人種間での結婚やミックスと呼ばれている人たちが増えている今、「日本人にはこれが合う」「日本食は欧米食よりも優れている」と短絡的に言いきることには違和感を感じます。そもそも南北に長い日本において、日本人と一言でいっても体質や気質は一枚岩ではないはずなのに。
つまり、この地上のどこかに完璧な食事法があるという食に関する幻想もまた「魔」になり得るのではないでしょうか。マクロビだろうがビーガンだろうが、どこかに完璧なものがあって他の食べ方よりも優れているという思い込み(高慢さ)自体も乙女座的なの負の側面だと感じています。
添加物をなくしてオーガニックでビーガンな「正しい食事」をしたら神とつながれるっていうわけではないですし、断食やファスティングも個人の功名心のために行うものになった場合むしろ危険を伴うでしょう。魚座の時代に必要だった食(乙女座)を通じて宗教組織を構築する手法は、水瓶座の時代には時代遅れとなります。
もし、水瓶座の時代を準備するための「食」(乙女座のエネルギー)の選び方があるとしたら、それは、あらゆる食の在り方をフラットに見て、自分の魂の真実と体質から食べるものを選ぶということではないでしょうか。
それは、マクロビとかビーガンとか、ファスティングとか断食とか、何らかの特定の枠にはまることもはまらないこともあるでしょう。
そして、まさにそのオリジナルな在り方自体が、水瓶座の時代を生きていくための態度になり得ると思うのです。
つまり、外なる神(カリスマ、権威)の処方に従うのではなく、内なる神(水瓶座の時代を補完する獅子座の太陽のエネルギー)の声に従って、自分だけの食の取説を作っていくことです。
それこそが、乙女座の神話に内包されている豊穣と貧困(飢餓)のテーマを乗り越えるためには必要なのではないでしょうか。
その流れでいうと、昨今よくスピ界隈で目にする日本人の食が世界を救う!みたいなことや、あるいは日本以外のハワイのホ・オポノポノのヒューレン博士が「日本人が画期的な食に関する発明をする」という予言をしたということなどを読んだりするのですが、もし、日本の食が何かを起こすとしたら、それは、何か特定の食材をヒーロー的な人が発見するというよりは、あらゆる民族の文化や食を受け入れる食に対する寛容で謙虚な態度を日本人が示し、そのような場を開いていくことによって、おのずと醸成されてくるものが、日本人が食に関して世界に貢献できるものなのではないかと考えています。
そうじゃないと、食は(悪い意味での旧時代的な)宗教に転落し、(時代遅れになりつつある)魚座の時代のカリカチュアになってしまうでしょう。
だからこそ、新しい時代の「食」は、単なる過去の復活というよりは、オクターブ上の変容になることが求められているのではないかと個人的には強く感じています。