日本古代の転生での魄(はく)を回収する旅。その7~大小相似形の2つのレムリアンシード、雌雄の分化と太極図
日本古代の転生に関するスピリチュアルジャーニーの続きです。
伊勢神宮まで行ったことでとりあえず日本古代の転生に関してはおおよそ納得のいく筋書きは見えてきたのですが、レムリア(ムー)に関する個人的な癒しはまだまだ未完了という感じがずっとぬぐえないままでした。
殺した殺されたという傷や、部族同士の恨みつらみではない、何かもっと根源的な傷の癒しが未完了だという感じです。
それはおそらく、レムリア(ムー)の時代の両性具有と関わっている気がしました。
そうこうしているうちに、2008年、私の手元には時期をおいて2本のレムリアンシードがやってきます。
レムリアンシードは、ご存知のない方もいると思うので簡単に説明しますと、2000年代に入ってから突然発見され始めた水晶の一種で、通常はクラスターの中から発見されるのに対して、レムリアンシードは1本1本独立した状態で見つかり、しかも独特のバーコード(条)が入っているのが特徴です。
2008年、春と秋にそれぞれ全く別のお店からレムリアンシードを購入したのですが、驚くべきことに、この2つのレムリアンシードは、サイズはかなり違うのですが、大小のほぼ正確な相似形をしていました。つまり、クリスタルのファセットのカット、形状が全く同じだったのです。
今は手放してしまったので実物の写真をお見せできないのがとても残念ですが、その当時の私は、時期を置いて私の手元に届いたこの2本のクリスタルに驚き、それを色々な人に見せまくっていましたが、皆が私同様に驚いていました。
なぜこんなに形が似た、相似形のレムリアンシードが私のところに来たのか?
その理由を知りたく、いわゆるサイキックリーディングができる人にも見せたりしたのですが、どうやら持ち主である私自身が答えを出さなければならないらしく、確たる情報は得られませんでした。
そこで、それまでチャネリングとかしたことなかったのですが、身体の上にこの2つのレムリアンシードをおいて、自分でプチ退行催眠的なことをやってみることにしました。
すると、おそらくレムリア(ムー)と思われる時代に飛び、母と子のイメージが出てきました。女性と小さな男の子(少年)のペアです。このペアのうち、女性が私でした。
なんというかこの二人はいつもぴったりとくっついて行動していて、身体こそ別々ですが、イメージでは強く子宮のあたりでつながっている親子のような関係です。
ただし、親子といっても、現代の私たちがイメージするような母と息子の関係性ではない気がしました。
ある意味では恋人・・・というか、適切に表現するならばそれは魂の双子同士という感じなのです。ただそれは実際に恋人だったというよりは、この少年を通して私は魂の片割れの存在を常に感じているという意味での魂の双子感です。
この時期、私はとても深い心の充足を感じて穏やかに暮らしていたようです。
ところがある日、私(女性)は、この大切な男の子と離れ離れになってしまいます。
イメージとしては、無理やり男の子を連れていかれるという感じでの別れです。
上述したように私とこの子はエネルギー的には深くつながっていたので、これは自分の身体の一部をもぎ取られるに等しいことで、思い出した時には張り裂けるような悲しみと痛みが湧いてきました。
・・・そして、場面が変わり、私は水の神殿の中で空ろな操り人形のように巫女をしているというシーンに飛びました。そう、レムリア(ムー)の過去生として最初に思い出したタントリックな巫女の過去生ですね。
・・・ここまで思い出した私が感じたのは、道教とかで有名な陰陽の図、つまり太極図のイメージです。
おそらく私(女性)と少年は実際の親子というよりは、こういう関係性だったのでしょう。
つまり、陰(母)の中の陽(息子)というペアです。
そして、母と息子のペアが存在しているのと同様に、父と娘のペアも存在しています。
・・・太古の時代、レムリア(ムー)が始まるよりも前、人間は雌雄未分化の状態でした。
やがてレムリア(ムー)が始まり、天に月が成立する(月と地球が次第に分離する)ようになると、徐々に男女へと性が分かれていきました。これは人類が自由な体験と自立を目指すために必要なことでした。
※余談ですが、エッセネ派の古い神話の中にも、水星と金星の使者たちが人間を徐々に形作っていく様子が描かれています。
しかしこの時代は雌雄が分化してから日が浅かったので、人々が本来の魂の双子を忘れてしまわないように、男性は女性の、女性は男性の似姿としての「子ども」といつも一緒に行動していたようです。
つまり、女性は、彼女本来の魂の片割れの似姿でありガイドである少年と、男性は、彼本来の魂の片割れの似姿でありガイドである少女と、いつも一緒だったのです。
この仕組みがあるので、人々は、どれだけ離れていても出会ったときにすぐに自分の魂の双子が識別できる状態だったのです。文字通り、女性は、自分の導き手である内なる男性性を通じて、男性は、自分の導き手である内なる女性性を通じて、必ずお互いに引き寄せられるようになっていました。
だからこの時代は、間違った相手と巡り合うこともないし、本当の片割れを忘れてしまうことはなかった。
この時期は人類にとっては一種の黄金期であったようです。比較的自由で独立した存在でありながら、魂の双子と一緒にいられたからです。(だからこそ、レムリア(ムー)に対して良いイメージを持つ人が多いのでしょうね・・・)
これがいわゆる地球における聖書の「エデンの園」の状態なのではないかと私は思っています。
※秘教的なエデンの園についてはこちらで書いているよ~
私自身の魂の記憶では、まさにこの、導き手である内なる男性性の少年とぴったり一緒にいる状態がエデンの園の記憶です。このときは、自分の魂の片割れとも必ず出会える(ので特に外に求めることはない)という確信があったように感じます。
ところが、それがある日、きわめて暴力的な形で自分の内なる男性性である少年と引き離されることになってしまったのです。太極図でいうところの勾玉の中の〇の部分をくりぬかれるような、破壊されるようなイメージです。
内奥に男性性の欠損を抱えた私は、「もう誰でも一緒」というかなり絶望に近い感情で、水の神殿に収監されていったように思います。うつろな操り人形のように、タントラの儀式をしていたと思います。
考えてみてください。
導き手である内なる男性性/女性性が存在している間は、完全な調和が男女の間に存在していたので、そもそもタントリックな巫女なんて必要なかったのです。
人々は、この内なるガイドさえいれば、絶対的な相手、つまり魂の双子、魂の片割れ以外に関心(欲情)を持ちようがないからです。むしろ、絶対的な相手以外と関係性を結ぶことは魂の苦しみであったはずです。
・・・だからこそ、私は神殿娼婦やタントラなどの性の儀式には、根本的な聖なるものを感じられないのです。
誰か(巫女や神官)に導かれなければ聖なる性につながれない状態というのは、上述したような本来の魂の構造が破たんしていることが前提になっているので、つまり失楽園した後の次元が下がった状態のときの話ですし、そうした儀式を行う者たちにとっても、ある種の供儀が伴う(巫女や神官は自分自身の内なる男性性や女性性を殺さないと絶対的な相手以外とは性の儀式は行いようがない)からです。
だからこそ私は、神殿娼婦やタントラの儀式という仕組みの背後には、何らかのとても強力な光を装った邪悪な存在の気配を感じずにはいられません。
私がレムリア(ムー)のタントリックな巫女の過去生につながったときに強い死の衝動を感じたのは、そこにあったのはある種の邪悪な存在だったからだと思います。
なぜなら、その時上から降りてきて勝手に私と相手をつなごうとした白い光は、私のハートには一切触れることがなかったからです。
ハートをスルーして、眉間や下のチャクラだけをつないでいったからです。
真実でない存在は、決してハートに触れることがないと言われていますので、明らかにこの白い光は聖なるものではなく、聖なるものを装った偽りの光だと感じました。
・・・ここで、私は、ルシファーあるいは失われた惑星マルデクにつながることになります。