負の経験さえも昇華させて新しいものを生み出すコノハナサクヤヒメ~はらえとむすびはセット
先日、日本の位置と役割に関する記事を書いてきました。この話はまだまだ続くのですが未完です(笑)
でね、日本的な火のエレメントの在り方を体現する存在として私が思い浮かべるのは、コノハナサクヤヒメなのです。
コノハナサクヤヒメについては、以前熾天使(セラフィム)の話で触れていますが、
コノハナサクヤヒメのすごさって、火中出産の話だと思うのです。
これは、夫のニニギノミコトが、嫁いできたコノハナサクヤヒメがすぐに身ごもったことを怪しんで「お前は国津神の子どもを身ごもっているのではないか」と嫌疑をかけたことに対し、コノハナサクヤヒメは身の潔白を証明するために産屋をつくり、その産屋に火を放って子どもを産むという話です。
これを表面的に解釈しちゃうと、ニニギノミコトひどい男!ってなっちゃいますが(笑)、この神話を読むと、コノハナサクヤヒメの深い愛というか、負の嫌疑をかけられてもそれをつつみこんで、新しい命を生み出す糧に変えてしまうという強靭さすらかんじさせるしなやかさにしびれます。
ちなみに、インドのラーマーヤナにも似たような話があります。それが、英雄ラーマがラーヴァナという悪役に妻のシータ姫をさらわれていたのを救出したところ、ほどなくシータ姫の妊娠が分かるのですが、ラーマはシータ姫が身ごもっているのはラーヴァナとの間の子ではないかと疑い、シータ姫に身の潔白を証明させようとするんですね。だシータ姫は、大地の女神に「私が貞潔ならば大地に受け入れて欲しい」と言ったところ、大地はシータ姫を飲み込んでしまい、二度とラーマのところに戻って来ないという逸話です。
とても似ているけれど少し違うこの2種類の神話を見ていて、シータ姫のある種の厭世的な受け身の姿勢に対して、コノハナサクヤヒメのゆるぎない相手への愛と自信がかなり対照的だと思いました。
おそらく、英雄ラーマ/ニニギノミコトは霊的な世界の代表、シータ姫/コノハナサクヤヒメは物質的な世界の代表を象徴していて、霊的な世界が物質的な世界が穢れているのではないかと疑うということを表現しているのかなと思います。
そして、この嫌疑に対するインドの神話と日本の神話の違いは、そのまま、インドの文明の中に根強くある「この世はマーヤ」という漠然とした物質世界への嫌悪感・厭世観と、生きとし生けるものがすべて神であるという日本的な霊性の違いかなと感じています。
でね。コノハナサクヤヒメの火中出産というのは、日本人がどれだけ負のできごとがあっても、いや、むしろそうした負のできごとを引き受けて、糧にして、全く新しいものを生み出していくという強さを示していると思います。
災害大国であり、過去から疫病に悩まされてきた日本は、その度に立ち直って、立ち上がって、より良いものを生み出してきた国民性がありますしね。霊的なものと物質的なものが平和裏に融合する可能性というのを日本は示していけるのではないかと思います。
私が今学んでいる神道のある流派では、はらえとむすびはセット、つまり破壊と創造はセットだということを強く教えられます。特に、はらえを常に行うことで、同時にむすびが行われるという思想がある流派です。
ネガティブなものを受け止めて包み込んで、それを昇華させてしまうのが日本の霊性のすごさだなと思います。