人生相談家としてのシュタイナー。彼が「カルマ論が自分にとって最も重要な研究」といった理由。
今年、ふと目に留まって購入したシュタイナー関係の本があります。それがこちらの本。”Viel mehr als nur die Antwort auf meine Frage” : Rudolf Steiner als Seelsorger というもので、邦訳すると「私の問いへの単なる答えをはるかに超えている」:魂の導き手(牧師、カウンセラー)としてのシュタイナー」みたいな感じでしょうか~(上手に訳しづらい)。
この本は、高度な霊的な理論体系を精緻な美しいドイツ語で情熱的に聴衆に語りかけた講演者としてのシュタイナーではなく、当時彼の周りに集まった人や同時代を生きていた人たち一人一人の人生相談にのっていたという人生相談家としてのシュタイナーを、当時彼と関わった数多くの人たちの証言から書き出したものです。
シュタイナーといえば、日本ではもっぱら講演録の翻訳が知られており、こうした人生相談家としての彼にフォーカスを当てた本はそれほどありません。
なんかこの本がね・・・本当に泣けるの。
いわゆるスピリチュアルカウンセリング的なこともやっているし、単純に人の話を辛抱強くずーっと聞くみたいなこともやっているし、時にはまるでインドの聖者のように?離れたところにいる弟子を霊的に保護したりもしている。
一般的にシュタイナーの仕事として知られている大量の講演活動に加えて、こんなに一人一人の人間に寄り添う仕事をしていたなんてと胸が熱くなるし、同時にその献身が切なくもなる。時には結局死んでしまうある子供の看病のためにとんぼ返りで講演からクリニックに戻り、夜を徹して看病することもあった。
シュタイナーは60代半ばで亡くなりましたが、彼の後年の体調不良は人々のカルマの一端を担ったことが原因ともいわれています。そのためか、「人生相談の仕事が彼の人生を縮めた」と言われたりします。
ところが、シュタイナー自身は、あれほど類まれな霊的な叡智の宝庫である自分の汗牛充棟の講演録にそれほど重きを置いていないというか、ある意味醒めた目で見ているんですよね。そういう自分の霊的な叡智が、ある種のブレインキャンディというかいろいろな形で知的遊戯に使われていくだろうということも見越していて、そのうえでそこに(本になった講演録に)自分の本質はない、と言っているのですよ。
先日、こちらの記事の中で、シュタイナーが自分の業績の中で最も重要なものとして「カルマ論」を挙げていた、と書きました。
一昨日くらいにふと、「シュタイナーがこの言葉によって言わんとしていることは、自分の書いたカルマ論という講演や研究「だけ」が重要だと言っているわけではなくて、彼が講演活動の裏側でひそかにやっていたような、一人一人の人生の一端を担い変容を助ける地道な実践活動が、シュタイナーがその人生で成し遂げた重要な成果だと言っているのではないか」と思ったのです。※あくまで、私個人の見解です。
・・・話は少し脱線しますが、先日アガスティアの葉を開いた話をしました。
アガスティアの葉って前世占い?的にポップな感じで扱われたりもしますが、本来は、聖者(マスター)からの祝福として契約がある人(ご注意いただきたいのですが、アガスティアの葉がある人が特別ですごい人というわけではなく、あくまでカルマ的・霊的な約束がある人)のために用意されているものなのですよね。※なので、アガスティアの葉がそもそも存在しない人もいます。それはその人の魂は別の系譜に属しているからであって、霊的な進化段階とかとは無関係です。
私が利用させていただいたサービスを提供されている方々はかなり真摯にアガスティアの葉を提供されており、アガスティアの葉を読む前にシッダ哲学の概説を読むようにと言われて、その冊子を手元に置いて読んでいます。
そのマスターたちも、「最も高いレベルでのマスター奉仕は、人の進化成長を促すこと。人の変容こそが、マスターの喜び」とはっきり言っているのです。これが、本当の(最も高いレベルの)錬金術なのだと。
・・・シュタイナーの精緻な理論体系は、いくらでも切り貼りしたり引用して「使う」こともでき、彼の膨大な講演録それ自体もまた人類への貢献ではあると思うのですが、シュタイナー自身は、単なる知的遊戯に自分の業績が使われることにはまったく関心がなかったと思う。
それよりも、一見無駄で遠回りのように思える一人一人の人との関りの中で、それぞれの人がシュタイナーから受け取った霊的な火によって変容していことをこそ重視していたのではないかと思います。
ドイツ語しかないのが残念ですが、この本は読むと泣けてきますのでおすすめですよ・・・